前回は2度目のダマスカス観光で映画館に行った話を書きました。今回は、いよいよヨルダン・アンマンです。
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ヨルダン旅行記:アンマン・クリフホステルとは?
シリアを出て、アンマンの『クリフ・ホステル』という宿に長く滞在することになる。
そこまでの経過を書く前に、この宿について書いておこうと思う。
僕が行ったのは偶然だったのだけど、ここは日本人バックパッカーにはとても有名なホステルだった。
ヨルダンを通過する日本人バックパッカーなら誰もが通過するような場所だった。
管理人のサーマルは感じが良くて、日本人旅行者に人気だった。この記事を書くにあたりググってみたら、このホステルでたくさんの日本人と写真に写っているサーマルの姿があった。彼も歳をとっていた。
今はサーマルは別のホテルに移ったというブログ記事もあった。日記にはサーマルと書いてあったけど、いくつかのブログ記事を見るとサーメルと呼ばれていた。
イラクで日本人大学生拉致・殺害のニュース
2004年10月のニュース。
イラクに日本人大学生・香田証生さんが渡航、拘束され人質となり、殺害された事件があった。
大学生香田さんが滞在したのもこのクリフホステルで、そのときはテレビのニュースでインタビューを受けるサーマルの姿を見た。
あのときは「自己責任論」が日本中を蔓延し、殺害された大学生を「可哀そう」だとか「なんとしても助けるべきだ」と言う声はかき消されてしまった。日本人の恐ろしい一面を見たような事件だった。
後に、ドキュメンタリー監督の森達也さんの話によれば、あの「自己責任論」は週刊誌が注目を集めるための単なる「逆張り」であったという。それが世論になってしまった。
情報交換の場
クリフホステルは日本人バックパッカーの出入りが激しく、数日いると、何処其処に行ってきたと言う話を毎日のように聞くことになる。
同じようにトルコ、シリアから来た者。イランに行った者。エジプトから来た者。イラクに行くと言う者。中東旅行をする者の情報交換をする場になっていた。
フリーのジャーナリストという人もいて、若者たちは大人の彼らの話を熱心に聞いた。
アンマンはバックパッカーばかりか、あの当時の報道の拠点にもなっていた。
僕が行った2003年は、イラク戦争が終結したと「言われていた」時期だった。香田さんが行ったのはその約1年後。
僕が行ったその当時も、クリフホステルで意気揚々と「イラクに行くんだ」と話す大学生何人かと会った。
日本にいるとリアリティーがないかもしれないけど、あそこでは、その行動もリアルだった。
ある意味、ジャーナリストの「本場」のような場所で、本気でその現場を見たいと思ったり、将来の何かのきっかけにしたいと思っていたら、イラク渡航という行動も理解できた。好奇心とか冒険心とか、それに対する不安とか無謀さとか、その中で可能性を感じての行動だっただろう。「イラクに行く」という人たちを、無謀だと思う一方で、少しの羨ましさもあった。
僕も迷っていた。
まさかイラクに入るなんて考えはなかったけど、イスラエル・パレスチナに行こうかどうか。行けるのかどうか。それが、中東を旅行する大きな目的のひとつだったから。
情勢が不安定だから、入れるかどうかは状況次第と言われていた。
ともすれば、僕だって事件に巻き込まれていたのかもしれない。
香田さんはひとりでイラクに入ったのだろうか?
僕は、僕ひとりでは行けないと思った。
そして、聞く限りどうやら行けなそうだと思った。
ヨルダン旅行記:ダマスカス~アンマン
話を時間の経過順にもどすと、ダマスカスの宿を朝5:00に出て、バラムケからヨルダン・アンマン行きのバスに乗った。
隣に座ったおばさんが「席に染みがあるから代わってくれない?」と言ってきて、代わることにした。女性が嫌だったら男が代わるのがシリアの文化なのだろうか・・・。
9:30出国
10:00入国
荷物のチェックなどに11時近くまでかかった。
550spを両替したら7JDになった。ドルから両替するよりもレートが悪かった。
ヨルダン旅行記:宿探し。そして辿りついたクリフホステル。
12時過ぎにアンマン・アブダリ・ターミナル着。
新しい町に来ると毎度のことなのだけど、中心地までの出方が分からない。ガイドブックを見たり、バス停を探したりしてると、英語のできる髭のおじさんが声をかけてくれた。おじさんと言っても、今思えば30代前半くらいか・・・。今の僕より若いと思う。
フセインモスクがあるのが中心地らしかったから、そこに行きたいと彼に言うと、バスを教えてくれて、一緒に乗ってくれて、同じバス停で降りてくれた。
親切すぎてちょっと怖いくらい・・・笑
「次のバス停で降りる用事があったんだ」と言った。
そこで握手をして別れた。
ヨルダンはシリアに比べて物価が高いから、とにかく安い宿に泊まろうと思っていた。
ガイドブックに載っていた『アラブ・リーグ・ホテル』というところが安かったから行ったが、閉まっていた。ノックすると中から大きく太ったおじさんが出てきて、
「ここのホテルはもう終わったんだ」と言った。
もうやってないらしい。今のインターネットならリアルタイムの情報が分かるが、当時はガイドブック頼りだったから情報が古かったようだ。
そして、あとで思えば、僕が日本人だと分かったから勧めたのかもしれないが、
「みんなクリフに行くんだよ」
と、「そんなことも知らないのか?」という感じに言われて、クリフホステルに辿り着いたのだった。
次回は、アンマン1日目のことです。日本人バックパッカーたちとゆったりした時間を過ごしました。
つづく。