レバノン旅行記:ラタキアへ、シリア再入国。トランジットVISAとは?バスでの敬虔なイスラム教徒の青年。中東情勢とアメリカのこと。

大学生時代のバックパッカー旅行記です。トルコ→シリア→レバノン→ヨルダン→イスラエル→パレスチナ→エジプトの順に7か国を周っています。


Hiron
こんにちは、元バックパッカーのHiron です。(Twitter / Youtube)

前回はレバノン一家との出会いを書きました。今回はふたたびシリア入国です!

写真:2003.8.21撮影、ベイルート旧市街・エトワール広場

レバノン旅行記シリア再入国:ベイルート旧市街

ベイルートの旧市街を見ながら、シリアへのバスターミナル「ガラージュ・シャルルヘロウ」に向かう。(日記にはシャーリーズヘロウと書いていた)

旧市街はきれいだったが、内戦で一番被害のあった地域らしい。
破壊されたもともとの建物を残しながら再開発をしているようだった。
銃を持った警備の人が何人かいるのを見た。

レバノン旅行記シリア再入国:バスターミナル(ガラージュ・シャルルヘロウ)

ガラージュ・シャルルヘロウ

帰りのバスターミナルへの道は、来た時のように迷わないつもりだったが、これがまた迷った・・・・。

セルビスとタクシーの違いが分かったので、初めて乗ってみたのだが、けっこうすぐ近くで下された。
しかも、お金を取られなかった。

「行先が伝わらなかったのか?」

と思ったが、降ろされたのはバイパスのような道路の上。
この写真を見ると分かると思うが、ターミナルはその真下。
僕はそのことが分かっておらず、またいろいろ遠回りをしてようやく着いた。

上のバイパスから降りるどんな方法があったんだろうか・・・。

レバノン旅行記シリア再入国:おまえはタリバンか??

ターミナルでシリアのラタキアまでのチケットを買った。

時間がまだあったので日記を付けたりしていると、男性に声をかけられた。

「おまえはタリバンか?」

このことを覚えてなくて、日記を見て驚いた。
この質問に対しての感情はとくに書いてない。

2003年当時、タリバンはどのような存在だっただろう?
イラク戦争が一旦収束したと報道されていた時期だから、タリバンより、イラクのフセイン政権の方が注目されていたと思う(実際にはまったく収束なんてしていなかったのだけど・・・)。

2001年にタリバンが『バーミヤンの石仏』を破壊したニュースは衝撃で、アフガニスタンを訪れたという旅行者と話したのを覚えている。
9.11のアメリカ同時多発テロのあとすぐにアメリカはタリバンへの報復として、アフガニスタンを空爆した。
首謀者とされるアルカイダのオサマ・ビンラディン氏の名前は誰もが知るところとなっていたはず・・・。
タリバンとアルカイダがあるからまたややこしい・・・。

バーミヤン渓谷(karapaia.comより)

僕へのこの質問の意図は分からない。
東洋人の僕への、ただのジョークだったのだろうか?
「タリバン」がジョークにできる言葉なのかも分からず、きっと困惑したと思う。

レバノン旅行記シリア再入国:バスにて。敬虔なイスラム教徒の青年

14:30ラタキア行きのバスに乗る。
隣はフッサムという名のレバノン人の22歳の青年だった。
シリアの親戚の家に行くと言う。

彼は英語が話せたから、バスの移動中いろいろと話した。
敬虔なイスラム教徒で、1時間くらいはその宗教の素晴らしさについて語った。

ベイルートではマクドナルドの近くの宿だったと話すと、

「僕はマクドナルドには行かない。ボイコットしてるんだ」

と言った。
他にもコカコーラを飲まないとかも。
アメリカがイラクを攻撃したことでアラブ地域では反米感情が高まっている時期だった。
モザイク国家レバノン、ベイルートで出会った一家とはまた違った考え方だった。

ただの旅行でしかなかったが、レバノンの一家とフッサムという『アラブとアメリカの関係』を、まったく違った側面からの話として聞けたのは、今思えばすごく貴重な経験だったと気づかされる。
人によってはジャーナリストへと突き動かされたかもしれない・・・。
ただ、その後の経験で、当時の僕の頭はショートしかけた・・・。

この記事をきっかけに「アメリカ、イラク、アフガニスタン」などをいま一度検索してみる。

当時の日本の報道は、理由如何にかかわらずアメリカ支持だったが、だいぶ冷静に見れる今(2017年)だと、そこには石油利権がかかわっていて、かなりアメリカのエゴがあることがたくさんのネット記事などで知ることができる・・・。

イラクに大量破壊兵器はなかった。イラクの非人道さをアメリカ国民に印象付けた「クウェートの少女」の証言が「やらせの芝居」だったことも今では分かっている。
ISISの台頭も元はと言えば・・・。

当事国民にはもちろん及ばないが、遠い国の僕でも、彼の反米感情は理解できる・・・。

レバノン旅行記シリア再入国:トランジットVISA?(シリア再入国)

入国でバタついた。
というのは、これも良く調べておけばよかったのだけど、VISAにはいろいろと種類があるのだ。

シリアはもうほとんど見ていて、あとはヨルダンに抜けるくらいだった。それで、

2週間滞在のVISA=$24
トランジットVISA=$8

これもレバノン滞在の48時間と同じで当日を含めない48時間だったのだが、それを知らなかった。
だから、どうも計算上2日ではヨルダンに抜けられない・・・。

「$24もかかるの?」

となったのである。
でも、それが分かっていればトランジットVISAで行く計画もできたのだが、結局、数日の滞在のために$24を払うこととなった。
予定外の出費は痛かった・・・。

これから向かうラタキアは、シリアの北の方で、またアレッポに近いあたりになる。
旅行ルートとしては戻る形になってしまい、あまり能率的ではなかった。
当時、どれくらい考えてこんなルートにしたのか忘れてしまったのだけど・・・。

レバノン旅行記シリア再入国:ラタキアの町

19:00ころラタキア着。
このまま列車でホムスに向かおうと思っていたが、駅でホムス行きを聞くも当日はもうなかった。

宿を探さなくてはならなくなった。

街には妙に人がたくさんでていてザワザワしていた。
暗くて土地勘もないから、なんかさまようばかり。
東洋人は珍しいのか、「Hello」と何度も声をかけられた。

しばらくすると、人を呼ぶ大きな声が聞こえた。

「マサキロ!マサキロ!」

僕はマサヒロというのだが、ちょっと似てないか?
だんだん近づいてきて、ふと振り返ると、バスで隣だったフッサムがいた!

いとこと二人でいて、さまよってる僕を見つけて声をかけてくれたのだった。

「どこに行くつもりなんだ?」

と聞かれ、ガイドブックを見せると、その宿まで案内してくれた。

この日は木曜日。
イスラムの休日は金曜日だから、前日の夜で町にこれだけ人がいるんだと教えてくれた。
アイス屋は人だらけだった。

彼らも予定があるらしく、案内するとすぐに行ってしまった。
食事くらいできたら良かったのだけど。

レバノン旅行記シリア再入国:静かな夜

宿のドミトリーにはシリア人が1人いて、彼は耳が聞こえないという。
宿の主人の話では、「歩いてシリアを周っている」らしい。
『フォレスト・ガンプ』みたいだなと思った。

シャワーは水しか出なくて、冷たすぎるほどだった。
木曜日の町のにぎわいを聞きながら、早めに寝ることにした。

ラタキアの町並み(looklex.comより)

ラタキアは夜着いて、早朝にでてしまったから、町並みをよく見れなかった。
こんなに爽やかな港町だったんだなぁ。

次回は、ホムスへ行きます。「クラック・デ・シュバリエ」観光です!

つづく。