久しぶりに「中東旅行記」のつづきです。前回はアンマン4日目の記事になります。「クリフホステル」でTさんと出会い、いよいよイスラエルに入国します!
Ricoh GR1v + FUJIFILM REALA ACE100で撮影した写真と、滞在地情報のメモ的な内容で載せたいと思います。7日間分まとめましたので、やや多めの約7500文字・10分くらいの分量かと思います。
REALA ACE100(リアラエース)のこと
2012年4月に販売終了。私がこれを使ったのは、大学生時代の2003年当時ほとんど唯一しか知らなかった写真家の蜷川実花さんが使っていると何かで読んだから。これが高級ネガフィルムであることも意識していなかった。「リアラ仕上げ」で現像を頼むものらしかったが、ここの写真がそうやって現像されたかは分かりません笑(画像はWikipediaより)
中東旅行記:イスラエル・パレスチナに興味を持ったきっかけ
中東旅行をしようと思ったのは「イスラエル・パレスチナ」を見てみたいと思ったからで、その理由は、東南アジア旅行で同じツアーに、イスラエルから来たというきれいな女性二人組がいたことだった。
イスラエルというと中東問題で大変な国というイメージなのに、楽しそうに旅を満喫していた。上がそのときの写真(隠し撮り?汗)。「美しい女性に惹かれて」という訳でもないと思うけど、行動してしまうのは若さかな・・・。ユダヤ人だけでなく、キリスト教圏の人たちは社会に出る前に旅をするというのがあるとか。その手の映画も多い。
こういう若者が旅する文化は日本にもあったらいいのにと思う。当時は、テレビの「電波少年」の影響でバックパッカーに出る人が多かった。今は「旅」って感じでもないのかな。「世界の果てまでイッテQ」じゃないけど、インスタ映えスポットを訪れる感じなのかも。
また、行こうと決心できたのは、東南アジア旅行のときに知り合った大学院生の方に「中東は親日で旅しやすいよ」と、想像と裏腹の体験談を聞いたのも大きかった。
中東旅行記:Karrimor Overland25 と旅の持ち物(アンマンにて)
旅の拠点はヨルダン・アンマン
イラク戦争の中継が「アンマンから」となってるを覚えている人も多いかも?ヨルダンはアラブでも治安が安定していて、その首都アンマンは、テレビ中継の拠点になっていた。
滞在したアンマンの「クリフホステル」には、宿泊客の人数には見合わないたくさんのバックパックが置いてあった。それは、ここに大きな荷物を置いて、イスラエル・パレスチナはたまたイラクに出かけた人たちのものだった。
私たちも、アンマンを拠点にして、イスラエル・パレスチナに出かけることになった。クリフホステルについては下記事のような場所です。
イスラエルへの持ち物
ブログ名にも使わせてもらってる「Overland25」というのはカリマーの25Lのデイバックで、この中に必要なものを入れた。メインのバックパックは置いていった。というのは、治安の不安定なイスラエルでは、荷物検査が厳しいということもあり、たくさんの荷物を持っていると入国できない可能性もあるとのこと。カメラも、Nikonの一眼レフは置いて行って、Ricoh GR1vだけにした。
中東旅行記:入国審査、イスラエルは最後に入らないといけない国?
アンマンからイスラエル国境までJETバスというので行ったのだけど、結果的には正解だった(前の記事でセルビスが普通だとちょっともめた)。詳しくはわからないけど、一般車やセルビスとルートが違って、むしろ優先的に通れたように感じた。セルビスで8時間待ったというのを聞いていた。
またアラブとは人がガラッと変わる。イスラエル人ということになるんだろうけど、みんな聡明そうに見えた。係員に女性が多いのも印象的。アラブ地域では女性が業務をしているのにめぐり合うことがなかった。
あと、態度が大きい。少なくともそう感じた。パスポートチェックをしているときに鼻歌を歌ってたりする。なんかアメリカンというか。
そして、問題なく通過できた。
そこから乗り合いタクシー。イスラエルというから急に近代化するのかと思いきや、アラブの文化も混在してる。人が足りなくて発車しないのはおなじみ。乗客の女性が「私たちでその分を賄いましょう」と提案してきた。
パスポートとイスラエルのスタンプ
たくさんの国に行きたい人なら知ってることだけどイスラエルのスタンプがパスポートに押してあると入れない国がある。これに関しては、その前に滞在した「レバノンについて」でも書いた通りで、レバノンもイスラエルのスタンプがあると入国できない。アラブの多くの国と対立関係にあるので仕方ない。
だから、パスポートがいっぱいになる最後にイスラエルを訪れる計画をしてる人もいると思う。現に、つい最近の2018年でもそういう人に遭遇した。
ただ、陸路でヨルダンから入国したときは「別紙にイスラエルのスタンプを押す」という対応をしてくれたから最後でなくても大丈夫だった(当時の私は無知だったので、ぜんぶ出会った人や一緒に行ったTさんに教えてもらったのだけど・・・)。飛行機で入った場合はダメかも?ちょっとオフレコ情報って感じですが、行きたい人はご注意ください。
中東旅行記:エルサレムにて
エルサレム旧市街に泊まる
キリスト教とイスラム教の聖地であるエルサレム。私たちは、エルサレム旧市街、アラブ人地区のホステルのドミトリーに泊まった。
旧市街はクオーターと呼ばれる4つの地域に分かれている。
- アラブ人地区
- ユダヤ人地区
- キリスト教地区
- アルメニア地区
ユダヤ人地区はきれいで、経済格差がよくわかる。
旧市街は塀で囲まれているのだけど、上の写真はイスラエル地区の門。どこだろう。とにかくきれい。
エルサレム・ユダヤ人地区(旧市街の外)
旧市街の外のユダヤ人地区にも行ってみた。アラブ人地区に比べて色がカラフルだろうか。
また、文字が違う。アラビア語じゃなくて、ヘブライ語。このヘブライ語は一度消滅したのをベン・イェフダーという人が再生させたらしい(小学生のころ、友だち間だけで通じる言葉を作ったのを思い出した笑)。「ベン・イェフダー通り」という彼の名を関した通りもある。
下の写真は市場。いわゆるユダヤ教の恰好をしている人もいる。デパートのようなところもあって入ってみたが、テロへの警戒が厳しく、パスポートチェックと荷物を係の人に見せるチェックがあった。
エルサレムのファラフェルの値段
ファラフェルはピタというパンに、具を挟んだもの。
これが私の当時の主食になるのだけど、日記を見ると、いろんなところへ行って値段を調査してる。ファラフェルが7nisで、高いのかどうなのかの計算式のメモがあった笑。
だいたい、1nis=30円だったみたい。210円。でも、周辺国より物価が高かった。
ピタの生地だけだとすごく安くて、非常食用に10枚くらい買った。おにぎりみたいなもんかな?笑
甘いものを食べたくなったときは、桃とかリンゴを買って食べたり・・・。なんか日本と違う。日本のような既製品よりも、世界はもう少しナチュラルなものを食べているようだった。
ヴィア・ドロローサを辿るイベント(キリスト最後の道)
ヴィア・ドロローサは「苦難の道」の意味で、キリストが十字架を背負って最後に歩いた道。これを牧師たちとめぐるイベントのようなものをしてる。Tさんに誘われて参加した。
各国からキリスト教徒が来ていた。と言っても、そんな多い人ではなかったけど。この参加者にはNHKクルーもいて、ちょっと旅感が薄れてしまう・・・。そういえば、カッパドキアでも日本のテレビクルーを見たという情報が。どこの国に行ってもだいたい日本人と出会う。
パレスチナ問題とジャーナリストのおじさん
ホステルには、日本人が3人いた。ジャーナリストらしい50代くらいのおじさんと、中東研究で来てるという大学生の2人。
夜になると、お酒を飲みながらジャーナリストのおじさんの演説が始まった。イスラエルとパレスチナの問題について。Tさんは新聞社に勤めているから、こういうのをむしろ聞きたかったようだ。当時の私は、ただどんな国か見たかったくらいの理由だから、こんこんと説教のように感じてしまった。そういう私に気づいてか、ジャーナリストのおじさんは「理系が何の役に立つ?」と絡んできたりした・・・。
ユダヤ人とは何者か?キブツとは?イスラエル映画
無知な私は、当時ユダヤ人とイスラエル人が一致していなかった。その後にユダヤ人の選民思想というものに興味を持って、本を読んだりした。出エジプトのときにモーゼと共に脱出した人たちがユダヤ人なの?日本という島国にいると、民族という成り立ちが不思議すぎる。フロイトの「モーセと一神教」という本が面白かった。
ドミトリーにいた大学生の一人は、とくにイスラエルの「キブツ」について研究していた。これもまったく知らなくて、そののちにNHK国際映画祭のようなものでキブツの映画を見つけて見に行った。『Sweet Mud』(甘い泥)という映画。キブツは協同組合で、学校を拡大して子育てまで行う理想の共同体のようだった。しかしうまくいかないシステムが描かれた。ずっと忘れないだろう映画になっている。(今は簡単には見れない映画みたいだ・・・)
中東旅行記:パレスチナ自治区、ラマラへの旅
ラマラ、アラファト議長邸へ
Tさんとキブツ研究の大学生3人でアラファト議長が幽閉されているラマラに行った。
日帰りだったけど、行くまでにバスが止められて、ひとりひとり荷物検査されたりと物々しかった。(上で電波少年の話題を出したけど、松本明子さんはアラファト議長に会おうとしたんだ・・・。すごい番組だったな)
余談だけど、「ラマラ」のスペルにはイスラムの神である「アラー」のスペルが含まれる。ラマラの会社の瓶のジュースを飲んでいたホテルのスタッフが、カリカリとその文字を消していた。なぜそんなことをしているか聞いたら、理由は「アラーの字があるまま捨てられない」ということだった。
ベツレヘム
キリストが生まれた場所という説がある場所で、ここも寄った。聖遺物があるという教会。そういう場所は、世界各国にたくさんあるらしいけど。(あとで、世界遺産なのだと知りました・・・汗)
中東旅行記:パレスチナ自治区・ジェニンへの旅
約1か月半の中東旅行にクライマックスがあるとしたら、このジェニンへの旅。日本ではありえないことの連続で、ずっと張りつめていた。
これは、ジャーナリストのおじさんがイスラエル・パレスチナ問題に触れるべきだと我々に冒険をさせたのだった。ジェニンはイスラエル軍に空爆を受けた街だった。
エルサレム~パレスチナ自治区・ジェニンへ
朝のエルサレム旧市街。アラブは石造りの世界。地震の多い日本では難しいね。
上でピタのパンが売ってたあたり。旧市街の出口。まだお店がやってない。
途中まではミニバスで移動した。
上の写真はTさんからのちにいただいたもの。ここはスルダというところらしい。パレスチナ自治区は飛び地になっていて、なんども道がイスラエルによって分断されている。
上の画像のような感じで、車が通れなくなっている。この画像はラマラへの道の途中のものかもしれない。
そうそう、ジェニンに行ったメンバーを紹介しなくては!4人で行った。
・私
・Tさん
・私たちよりあとにやってきた大学生
・中東に語学留学していた女性
なんか、ドラクエのパーティーみたい。私がいちばん何の能力もなさそう・・・。
途中、オリーブ畑を走行し、だだっ広いところで、イスラエル兵士に出会ってしまい、車のキーを取られる・・・。
数十分の立ち往生。
遠くに羊の群れが見え、逆には戦車らしいものが見えた。
しばらくして開放されるも、キーがない。
と思ったら、ドライバーはスペアを持ってた。なんて用意周到な。こんな事態は日常茶飯事なのか・・・?
このときはすごくヒヤリとした。まかり間違えば、囚われたとニュースに出る日本人旅行者になってたかもしれない(のちにその事件はすぐに起きたわけで)。
パレスチナ自治区・ジェニン着
そして、なんとか無事にジェニン到着!
ジェニンの子供たち。ほんとに破壊された街で、あちこち建物が壊れていた。
ジェニンで泊めてくれる家
これは、ジャーナリストのおじさんたちの知り合いとかで、話がついてるとか?
その家の住所のアラビア語を、私がノートにメモっていて、これで通じるのかと不安だったけど、なんとか家につけた。私が役にたったとすればこれくらい、メモ係り笑。
泊めてくれる家は大きな家で、豪華なごちそうをふるまってくれた。われわれはお金を払ったんだったかな・・・。
写真は、その家の屋上から、Ricoh GR1vでバルブ撮影したもの。ジェニンの夜景。
パレスチナ自治区・ジェニンからの帰り道
途中で小学生?の女児たちに出会った。こちらを珍しがって見ていた。
写真は帰りの途中休憩の様子。帰りのミニバスには、若い夫婦がいて、旦那のほうが足を骨折していて松葉杖だった。いくつも検問があるから、新婚で親せきにあいさつに行くとしても、一苦労という世界だった。
こうして、無事エルサレムに戻って来れたのでした。
中東旅行記:イスラエル、テルアビブでの休暇
エルサレムに戻って、彼らは次にナブルスというまた別の飛び地のパレスチナ自治区に行くという計画だった。
私は、もう、いろんな情報がありすぎて頭がショートしかけていたので、こちらはパスした。ここでドラクエのパーティーは解散して、4人共それぞれ別の場所に行った気がする笑
私はひとりで、イスラエル西海岸の都市テルアビブに行ってみることにした。一泊の小旅行。電車で行くことができ、パレスチナ自治区への冒険とは違って、旅行って感じ。
テルアビブは海岸の町で、綺麗で、欧米風で、アラブとは別の世界に来た感じの場所だった。
と言ってもところどころ粉々になった店舗があって、中東の対立を感じないわけにはいかない部分も。
日記を見ると、またファラフェルの値段調査をしていて笑ってしまう。2nis~10nisと幅広い笑
テルアビブでもドミトリーに泊まった。
韓国人のおじさん、アルゼンチンの若者、そして日本人のおじさん。
エルサレムとは宿の空気が違って、ここの旅行者たちは活動家ではなかった。世界を旅してるという人ばかりで、のんびりとしてる。テルアビブはバックパッカーなどの長期旅行者がいついてしまう都市なのかもしれない。タイのバンコクみたいに。ただ、街としてはとてもシンプル。
ホテルのロビーにテレビがあって、クイズミリオネアがやっていた。世界各国でやってる番組だと聞いていたことはあったけど、イスラエル版もあるとは。
テルアビブ~ヤッフォ観光
ヤッフォは「ヤッホー」語源だったような、そうじゃなかったような・・・。だとしたら高台のような気もするけど、行こうとして途中でやめたのかもしれない。海岸には釣りをしてるおじさんたちがいて、ほのぼのとしていた。
という、休暇のような時間をテルアビブで過ごしました。
中東旅行記:エルサレム最後の夜
エルサレムのホステルに戻ると、新しい日本人が来ていて、ちょっと空気が変わっていた。初日はわれわれが主人公のように感じていたが、彼らが主人公になり、私たちはわき役になったようだった。
大学生はレポートを書いていた。私はTさんにナブルスへ行った話を聞いた。
ジャーナリストのおじさんは、地図を広げて、新たな日本人の若者たちに行ってほしい場所を決めていた。引きでみると、そうやって、このおじさんは若者に冒険させていたのだと分かった。われわれをジェニンに行かせたように笑
そして、私たちは翌朝イスラエルを出国した。
イスラエルの出国審査?
簡単な質疑応答があって、そこでスタンプを押した紙は回収されたと思う。
Tさんに、質疑応答で「ジェニンに行ったことも答えた」と言うと、ちょっと怒られた。日記によると、このとき私は二日酔い気味で、Tさんに反論したと書いてある笑。今となってはとても親切な大人の忠告なんだけど。若くて分かってなくて、ごめんなさい。今ならすごく分かります。
中東旅行記:ヨルダン、アンマンに戻る
クリフホステルに戻る。オーナーのサーマルは無事戻ってきたわれわれを、笑顔で迎えてくれた。
Tさんと最後の昼食を食べに行った。イラク食堂かな?食べきれない量ですこし食べてもらった。Tさんは明日日本に帰る。
今思えば、感謝しきれないほどいい人だった。
当時34歳で、新聞社に勤めてるのを知っていて、この機にネット検索したら2018年も活躍中でした。誰からも好かれる隙だらけの人柄がすばらしかった。ひと回りも下の私に文句ばかり言わせてくれたんだから。一生忘れません!
ありがとうございました泣
以上、出会いと別れのイスラエル・パレスチナの7日間でした。長い文章を読んでいただきありがとうございました!
久しぶりに一人になって、次はペトラ遺跡をめざしてバスに。
まだ、旅は続きます!いつか書きたいと思います!